TEXT 2015


光速と音速

-ツリタニユリコの絵画をめぐって

 実際のところ、絵画を成すいろかたちは光の速度でヒトの網膜に伝わる。しかし、楽曲を端緒とする彼女の造形の出自を知るや、鑑賞者は「光速と音速」というふたつのスピードでこれを享受することになるだろう。「第九ときらきら星」-それぞれ感情と情感に満ちた曲の名が冠された本展では、その多重性がもたらす豊かさをゆっくりと味わってほしい。(2015年12月、ギャラリーゴトウ「第九とキラキラ星 ツリタニユリコ展」 DM)

 

 

 

 

  

これはバナナではない
-成田輝 個展『It is what it is』をめぐって[展評]

 Ceci n'est pas une pipe-でかでかとパイプが描かれたマグリットの《イメージの裏切り》(1929年)に添えられた「これはパイプではない」という言葉。なんということはない「これはパイプそのものではなく絵画ですよ」という意味なのだが、それは同時に鑑賞者に対して絵画の自立性を再認識させるための重要なメッセージでもある。
 成田輝の仕事における表現の種は、消費者に対する訴求や意識誘導または愛玩を目的として量産された製品のうち、経年劣化や破損により個として識別できる外観を獲得したモノたちだ。そんな外見上の変容あるいは単に飽きられることで任務の最前線から脱落し、そして作家によって拾い上げられたイメージは、FRPという素材によって彫刻として蘇生することになる。さらにその先にあるのは、大衆のおそらく過半数が「敷居の高い非日常的な場」と思っている「画廊」空間における一時的な主役への昇華だ。
 型を使った手法ゆえにその作品は複数制作することも可能なのだが、それは意とするものではないとする作家の発言にはアートとプロダクトを分け隔てる要素のひとつであるモニュメンタリティへの志向が伺える。今回発表された新作のうち「zombie12(banana)」はポップアートの旗手・ウォーホルが手掛けたヴェルヴェット・アンダーグラウンドの名盤《The Velvet Underground and Nico》(1967年)のジャケットを連想させたが、その一方で筆者の脳裏にはこんな言葉も浮かんでいた-「これはバナナではない」。
(2015年11月、RISE GALLERY WEBサイト https://www.rise-gallery.com/exhibition/2015-2016/november2015.html

 

 

 

 

  

KUTANI Nouveau

新たな九谷色絵の世界

 21世紀に入り、伝統的なものづくりをめぐる環境はますます大きく変化をしています。そんな現代において求められているもののひとつに「新たな工芸」があります。それはいわば先人たちの技術や美的感覚を継承しながらも、そのエッセンスとアートを融合させることで創造される「ひとつひとつが確かな輝きをもった作品」。そして本展「KUTANI Nouveau(クタニ・ヌーヴォー)」では九谷ゆかりの作家たちがそれぞれの「新たな九谷色絵」を発表することで、これからの時代に向けた九谷焼の新たな可能性が力強く表明されます。

  本展でとりあげる作家は鈴木秀昭(1959年-)、戸出雅彦(1964年ー)、田辺京子(1969年ー)、そして水元かよこ(1971年ー)の4名。いずれも九谷で陶芸を学び、現在は色絵による個性的な仕事で注目を集める作家です。鈴木は繊細な模様が無限に広がる器やオブジェを制作。戸出の作品は現代的なフォルムをベースに物語性のある造形が展開し、想像力を刺激します。田辺の器は親しみやすい手ざわりとともに、時にポップなモチーフを織り交ぜた朗らかな表現が特徴。そして水元は毒とイリュージョンを連想させる作品を制作し、見る者を挑発します。また、これとあわせて各作家による新作のサボテン鉢も展示されます。

   江戸時代以来、濃密な美を世に示し続けてきた九谷。一方、その新しい可能性を探る作家たちの作品は、東京をはじめ国内外の各地で積極的に発表され、国際的にも評価の高まりをみせています。また、北陸新幹線の開業は首都圏から石川県へのアクセスを一層スムーズなものとし、人やモノ、情報の往き来はますます活性化しています。本展はそんな「いま」の九谷で新たな潮流を紹介することで、作り手を含むすべての人々に新たな「工芸のありかた」を提案する機会となります。その試みは、歴史あるこの産地だけではなく、工芸の世界全体に新たな風を吹き込むことになるでしょう。(2015年10月、能美市九谷焼資料館・浅蔵五十吉美術館「KUTANI Nouveau 新たな九谷色絵の世界」 リーフレット)

 

 

 

コミカルとシニカルの行間に

-安斎歩見の表現をめぐって

 写真製版によるリトグラフで作品を制作する安齋歩見(1986年生まれ)。代表作であるピーナッツを擬人化したシリーズには鳥獣人物戯画・甲巻を思わせるコミカルで飄々とした気配があるが、その作品の本質的な魅力は、80年代以降に生まれた作家としては珍しいまでの客観性と骨太さであると言えるだろう。私が彼女に初めて会ったのは今年2月のことで、その傍らにはマレーシア機の事故(2014年4月)に着想を得た大作があった。重大事故という時事的な出来事を下敷きとしながらもハードボイルドな写真のような空気感と巧みな構図を通じてこれを完全に自分の表現として成立させている点に、私はこの若い作家の実力と大きな可能性を感じた。いわゆる「見立て」というのは日本美術において伝統的に行われてきた手法ではあるが、彼女の仕事にはさらに時代と連動したシニカルな批評精神が存在している。そしてそこには河原温の「浴室」シリーズを眼にしたときに感じるような冷酷さ或いは冷徹さまでもが内包されているように思うのである。(2015年10月、十一月画廊「安齋歩見展」リーフレット)

 

 

 

艶と遊び

-料治幸子のドローイングをめぐって

 墨を使った作品を拝見したとき、この作家の仕事にとてもよい変化が起きているように感じた。躍動感に溢れたドローイングにはかつてはドライな印象が強かったのだが、それが少し減じて、その分、艶が加わったような気がしたのだ。実際に踊るダンサーを同時通訳のように紙上に描出していく制作スタイルは、ほとんどフィジカルなレッスンに近い。それを重ねることは筆さばきの精度を上げるだけではなく「遊び」のようなものを育むことにも繋がっているように思えた。そしてその「遊び」こそが、それ自体がパフォーミングアートであるモチーフにドローイングが隷属することなく、力強い独自性をもって自立するための重要な要素なのではないか-私はそう思っている。
(2015年10月、Galerie412「料治幸子展」DM)

 

 

 

 生島明水の仕事場は海景と夕日の美しさで知られる西伊豆にある。そこで作家は吹きガラスをはじめとするホットワークや炉のなかでじっくりと素材を溶着させるキルンワークなど様々な技法を通じて表現に対する探求を重ねてきた。

今回の出品作品の多くはムリーニという細かいガラスパーツを並べてこれを熱で一体化させたもの。その過程においては静かに指先を動かすことで造形の基礎が創られている。それらが持つ愛らしくエレガントな雰囲気は、四季折々の豊かな自然へのまなざしと、そして逡巡と集中を重ねながら進められる手仕事によって醸成されてきたものといえるだろう。(2015年9月、十一月画廊「生島明水展」リーフレット) 

 

 

 

 証左のその先へ

-櫻井想 個展『draw』をめぐって  [展評]

 櫻井想は様々な技法で制作を行う作家である。一方、そのモチーフの種類は両手で数えられる程度に限定されており、それぞれ微妙な変容をともないながら繰り返し表現されてきた。このような手法は実在するモノと二次元との関係性を考察するために編み出されたものであり、その根源には絵画の存在意義に対する探究心がある。その姿勢は仮説と検証を繰り返すことで真実に近づこうとする科学者のそれとも少し似ている。

 本展に際し櫻井はリトグラフ、ドローイングそして立体作品を制作。うち幾つかの平面作品は過去の立体作品の記録写真を元に作られたものだ。一方で作家はこの数カ月コラージュから距離を置いている理由について、技巧的習熟により必要以上の写実性が生じるのを案じてのことだと述べている。このように今回の展示構成からは表現方法に対する実験精神のみならず技法選択における冷静な姿が察せられた。
 なお、タイトルの「draw」は「描く」ことにちなんだものだが、この英語には「結論を引き出す」という意味もある。その言葉は、制作経験で得たものや顕在化させたイメージ自体を証左として次の創造に向かう櫻井の方法論と、実に鮮やかに重なり合っているように思えた。

(2015年5月、RISE GALLERY WEBサイト https://www.rise-gallery.com/exhibition/2014-2015/may2015.html

 

 

 

中嶋明希が生みだす作品は温和な表情で人々を迎える。が、よく見るとそこには人によっては畏怖や嫌悪を抱かせるような生物-例えばヘビや芋虫-の姿が隠されていることがある。ウサギやパンダのように商業的に重宝される「かわいらしい生き物」だけではなく、自らが興味をもった生き物をあまねく対象とする姿勢には、生(せい)を等しく見做す仏性観に近いものがある。そして、その造形のいしずえとなっているのは、変容というものに対する強い関心だ。昆虫は幾度もの変容を経て成長し、花とは一蓮托生のような関係になることもある。しかし、昆虫は花そのものには成れない。動物と植物の掛けあわせは、一種の禁断である。つぶさに作品を見ようとする者だけに明かされる秘密-中嶋明希はどこか錬金術師のような気配をまとった作家なのである。

 

(2015年8月、ATERIER K 「ANIMALS」 会場資料、および作家WEBサイト http://www.akinakajima.com/text.html

 

 

 

 La mundología -外界と内界へのまなざし(5/5

RISE GALLERY「飯田翔之介+桜井想+安齋歩見+入山きらら+東山詩織 グループ展」展評より)

 安斎歩見は写真製版によるモノクロのリトグラフを制作。6年ほど前からはピーナッツを人間などパーソナリティのあるものに見立て、これをドキュメンタリータッチで表現したシリーズを発表している。テーマは戦争から将棋盤まで多岐にわたるが、それらはどれも戯画のようにユーモラスで、見る者のイマジネーションを心地よくくすぐる。出品作品「ヒコーキ」では手前には人垣を成すピーナッツたち、奥には残骸のような構造物がランダムに配されている。ここではピーナッツ特有の網目状の表皮は暗いトーンによりほとんど隠されているが、逆光により生み出されたような黒々としたシルエットは、向こう側こそが光景の核心であることを感覚的に悟らせてくれる。そして見る者の意識はやがてそこへと向かい、彼らと視野を共有することになるのだ。この作品に限らず、鑑賞者の意識の惹きつけ方の巧みさはどれも特筆すべきものがある-安斎歩見はまことに知将のような作家なのである。

(2015年2月、RISE GALLERY WEBサイト https://www.rise-gallery.com/exhibition/2014-2015/february2015.html

 

 

 

 La mundología -外界と内界へのまなざし(4/5

RISE GALLERY「飯田翔之介+桜井想+安齋歩見+入山きらら+東山詩織 グループ展」展評より)

 紙によるモデリングでぽってりとしたフォルムの女性や木を作りだしているのは桜井想。彼女の制作方法はユニークで、特定の人物(キャラクター)、樹木そしてバナナといったモチーフをレギュラーな題材として位置づけ、それらを立体だけではなく油彩や版画など多岐な技法で繰り返し表現している。それらは2次元・3次元に限らずもりもりとした塊量感を備え、記録画像だけでは平面なのか立体なのか判断できないものも少なくない。なお、素材として雑誌の掲載写真を用いることがあるが、これはいわば情報の断片といえ、それは限定的な題材を扱い続けることで必然的に生じてしまう「意味的閉塞感」を打ち破るための素材として機能しているように思えた。今回の展示作品はパステルトーンに覆われていたが、かつての作品には同様の形状でありながら彩色されていないものもある。おそらく作家はこのような試みを重ねながら、いろかたちや素材が持つ機能をひとつひとつ確認しているのだろう。

(2015年2月、RISE GALLERY WEBサイト https://www.rise-gallery.com/exhibition/2014-2015/february2015.html

 

 

 

 La mundología -外界と内界へのまなざし(3/5

RISE GALLERY「飯田翔之介+桜井想+安齋歩見+入山きらら+東山詩織 グループ展」展評より)

 暗闇に侵食されてしまうかのように描かれたアポロ11号。その作者である飯田翔之介は最近、「主題、何を描くか」よりも「技法、どのように描くか」ということに比重を置き始めたという。作家がこれに際して新たに選んだテーマは「宇宙」。理由は「絵を描くことは常に宇宙、具体的には重力などと関係していて、これまでもそれを意識しながら制作してきた」から、そして日常性を越えた人類共通の関心事に取り組みたいからだという。対象は20世紀中葉の事物から始まりいずれはこの先の時空と進んでいく予定だが、メディアアート等とは異なり「画布と絵の具」という古典的な素材による作品づくりに物理や未知の科学技術を反映させていくことは容易ではない。しかし、90年代生まれの彼なら将来は地球の外側において既述の課題に取り組むことも可能だろう。もしそれが実現したならば彼は来世紀あたりには「21世紀における、未来派の嗣子」のように称されているかもしれない。

(2015年2月、RISE GALLERY WEBサイト https://www.rise-gallery.com/exhibition/2014-2015/february2015.html

 

 

 

 La mundología -外界と内界へのまなざし(2/5

RISE GALLERY「飯田翔之介+桜井想+安齋歩見+入山きらら+東山詩織 グループ展」展評より)

 続いて迎えてくれたのは東山詩織による3点の平面作品。いずれも女性の顔や裸体によって埋め尽くされており、アジャンターやエローラといった壁画を連想させた。だが、その一躰一躰の様態を見ていくと、それらは反復や凝縮によりなかば意図的に記号へと昇華させられており、エロティシズムやセクシュアリティの色合いはきわめて希薄だ。東山はこう述べている。「人の集合体によって“何か”を表現することが好き」。加えて彼女は、それらの人物は自画像からスタートしたもので、作品のなかには日記のような内容も含まれていると語っているが、同時にそれは老いなどが介在しない理想的な世界もでもあるという。リアルと理想は重なり合わないことが浮世の常ではある、が、東山の作品ではそれらが支持体の上に二重投影されることで和合を叶えていた。それはまるでひとつひとつの作品それぞれが国産みの実録であるかのようであった。

(2015年2月、RISE GALLERY WEBサイト https://www.rise-gallery.com/exhibition/2014-2015/february2015.html

 

 

 

 La mundología -外界と内界へのまなざし(1/5

 RISE GALLERY「飯田翔之介+桜井想+安齋歩見+入山きらら+東山詩織 グループ展」展評より)

  5人展の冒頭を飾ったのは入山きららによる3点の立体作品。彼は「小さいころから好きだった」海の生物を2種類の様式すなわち大胆な単純化によってアイコンのような姿を得たもの、または超絶技巧の工芸品を連想させる写実的な形状のもので表現している。本展では、前者に関してはブロンズによるツヤツヤとしたタコが2体展示されていたが、特にうち1体はエリザベス女王のヘアースタイルと組み合わされるなどひと目で現代アートらしさが直球で伝わってくるような印象であった。また後者については陶による白いカニが台座上に鎮座しており、こちらはタコ、あるいは入山の年齢と比べればかなり大人っぽい雰囲気だ。だが四方八方からじっくり眺めてみれば、その表面にほとばしる金彩には抽象表現主義的な勇ましさがあり、作家として大海に漕ぎ出したばかりの作家の若々しいエネルギーはむしろこちらの方に如実に表れているように感じられた。

(2015年2月、RISE GALLERY WEBサイト https://www.rise-gallery.com/exhibition/2014-2015/february2015.html

 

 

 

まつげの角度-光のもとで

  「ピカーン」「ズモモモモ」。そんな人工的な音が聞こえてくるようだった。2009年の初個展で発表された作品で、江波戸が描いた子どもたちはその目から光を放っていた。フィクション性の強い絵画だと思った。それはパーツ自体が光っているというよりも、彼らの皮膚の内側にまるで発光体を含有する詰め物が充填されているかのように思えた。
   私は美術史の中にある2つの作品を連想した。ひとつは赤瀬川原平の『宇宙の缶詰め』(1964年)、そしてもうひとつは京都・高山寺に伝わる『仏眼仏母像』(鎌倉時代)だ。『宇宙の缶詰め』は、空き缶の内側に、本来であれば外側に貼られるはずのラベルを内側に貼ることで缶の内外の関係を逆転させ、宇宙までもをその内側に封じ込めた作品である。そしてもう一方の、『仏眼仏母像』は仏教において「智の象徴としての眼力」を神格化した「仏眼仏母」を描いたものだ。このふたつの作品が思い出されたのは、おそらく、子どもたちが身体の内部に光源を 抱(いだ)いていること、そしてまなざしそのものがその実体を具現化しているような成り立ちによるのだろう。
    だが、光を放つその目が視覚的に何かを認識できる機能を持っていたかどうかは疑問だ。というのは、眼孔を開口部としてそこから光が放出されているのであれば、その視界はホワイトアウトのような状態となって外界の知覚は難しいのではないかと思えるし、さらに自由な想像が許されるならば、2010年に発表された作品『花盛り』のなかに見られた花びら占いという行為は盲目の恋や論拠なき予測というもの思い起こさせるからだ。これとは別に、劇的ともいえる非日常的なポージングもまた絵画に謎めきを与えている。作家によれば、それはふと目にした子どもの動作に着想を得たものであるということなのだが、私の目にはそれが「あての無い動作をいろいろと試みる」ことで自らが「発光している」理由、あるいはより根本的に「存在する」理由を探ろうとしている行為のように感じられた。
   そして2012年。3年振りの個展で発表される江波戸の作品は、作家が新たな地平を目指し始めたことをはっきりと示していた。以前の作品との大きな違いは、子どもたちはそれ自身の身体から光を放つことがなくなり、その瞳は網膜に外光を受けて世界を知覚するようになっていたということだ。さらに彼らは、視角や瞼の高さを変えることで、外から入り込んでくる情報を意識的または無意識的に制御するようにもなっていた。私は、今度は15世紀のイタリア絵画を連想した。その理由は真横向きの人物像がピサネロやピエロ・デッラ・フランチェスカによるポートレート、あるいは色調においてフレスコ画に通じるような乾いた空気感との共通点を示していることによる。また、これに加えて『与える者』は6世紀から7世紀にかけて制作された観音像に見られる側面観を強く思わせた。
   その子どもたちの姿は、彼らの心理状態への推察へと鑑賞者をいざなうだろう。だが、多くの作品においてその視線の先にあるものは明かされておらず、その属性あるいは周囲の環境に関するヒントも捨象されている。音も聞こえてこない。
   つまり、作品の前に立った者の視線の動きは、最初に人物の目や頭部そして身体部分を捉えたあと、何かしらの情報を求めて周囲へと移り、具体的に何かが描かれていることのない場所を巡ってはみるのだが、最終的にはやはり目許あたりに穏やかに帰着していくことになるのである。だが、このような視線の回遊は、知らず知らずのうちに画中の人物に対する親近感を見る者の心の中に湧出させてくれることも確かだ。
   かつての光を内蔵した子どもたちは、小道具とともに舞台設定済みのストーリーの中に置かれながらもその存在理由に対する疑問(疑念といってもいい)を濃厚に内包しているように見えた。しかし、いま目の前にあらわれた子どもたちは「知覚」と「思索」の間をゆらぎながら、世界と自分との関係性を探り始めている。いずれも横向きに描かれた彼らは、こちらとまなざしを交わすことが出来ないという点では以前の子どもたちと重なるが、けれども、無防備とさえ思えるようなプロフィールが明らかにするまつげの角度は、我々が彼らの心の向きに寄り添うことを可能にしてくれるだろう。やさしく、静かな光のもとで。

(2012年11月、Gallery惺SATORU WEBサイトhttp://gallerysatoru.com/2012_ryuebato.html / 画像提供 Gallery惺SATORU)