TEXT 2019

兎と青年

(2019年5月、『炎芸術』138号、「現代工芸の作り手たち 第11回 漆芸 吉野貴将」阿部出版)

帷と岸辺 -山口修 個展『夜に結ぶ形』をめぐって[展評]

(2019年4月、RISE GALLERY WEBサイト  https://www.rise-gallery.com/exhibition/cn16/april2019.html)

きわどい遊び -成田和子とその彫刻をめぐって

(2019年4月、制作協力 ゆいぽうと)

 『VOCA2019』東城信之介  カタログ掲載文章/ 会場用パネル

(2019年3月、VOCA展実行委員会)

少し前の自分 -山口 修 + 小穴琴恵 『2人展』をめぐって[展評]

(2019年1月、RISE GALLERY WEBサイト  https://www.rise-gallery.com/exhibition/cn16/january2019.html)

 



兎と青年

 

(2019年11月、『炎芸術』138号、「現代工芸の作り手たち 第11回 漆芸 吉野貴将」阿部出版) 

  


帷と岸辺 -山口修 個展『夜に結ぶ形』をめぐって[展評]

 

 深夜徘徊-裸足の場合も含め-を常習し、ゆえに職務質問をされることもあるという山口修。沈鬱なトーンとまるでその反動のような白日夢的色彩から成るその絵画には、一部の作品名にも現れているように、「あてどなさ」への関心が漂っている。
   彼はその制作において、いちど明るい色で全体を描き、それを徐々に暗めの色で覆っていくという方法をとっている。作家によれば、キャンバスの表面には一時的に人物の相貌が登場することもあるが、それもまたこのプロセスのなかで殆ど消えていくという。私はその状況を想像した時、画面に夜の帷が忍び寄って行くような感覚を覚えた。と同時に、人間の表情が不明瞭となっていく様子は「黄昏」の語源である「誰そ彼」という言葉と鮮やかに重なり合った。
 《地球が丸くなければよかったのに》は作家が「世界の果てシリーズ」と称するものの一つだ。そこには、この世に縁(へり)というものがあればそれを見てみたい、という願望が反映されており、その向こうにはいつも暗い宇宙が広がっている。
 裸足で、という山口の言葉から私が連想したのは巡礼者として四国を歩いてきた人々、より具体的には、厳しい道のりで知られる足摺岬での姿だった。ここもまた歴史的には現世のきわとされてきた場所である。一方、先述の「誰そ彼」時はまたの名を逢魔時ともいい、それは異界へのアクセシビリティを意味している。作家は、夜更けに彷徨い、絵画に帷をかけていくことで、岸辺の先の世界との接触を試みているのかもしれない。

(2019年4月、RISE GALLERY WEBサイトhttps://www.rise-gallery.com/exhibition/cn16/april2019.html) 

  


きわどい遊び -成田和子とその彫刻をめぐって

(『成田和子作品集』所収)

 

(2019年4月、制作協力 ゆいぽおと)

  


『VOCA2019』カタログ掲載文章

(推薦作家 東城信之介氏について)

 

 東城信之介がアテネで察したのは、同じく世紀転換期に「国際的な大会」を開催した故郷・長野と同質の荒廃だった。
年月を経て素材に残された痕跡に自身の存在を上書きする「タギング」シリーズを手掛け約10年。その目的は対象とするものの確認や解釈、それによる安心の獲得であり、制作においては長らく「物質と作家」「過去と現在」という二者関係が重視されてきた。だがギリシャからの帰国後、そこには「世界」と「未来」が加わる。
 模写を自称することは、伝聞と嘯(うそぶ)き「此比(このころ)都ニハヤル物」と世相風刺を連ねた「二条河原落書」の批評的態度と重なる。一方、周囲の事物を映し、奥行きを錯視させる性質は鏡に通じるが、その「鏡」も古来より史書=社会記録の異名である。
 壁の描出はまさに浮世の歴史化といえる。と同時に、その物理的性質ゆえに不断の反映(リフレクション)を運命づけられた本作は、過去の遺物とされることからも永遠に免れうるだろう-東京での「大会」後もずっと。

(2019年3月、VOCA展実行委員会)

  


少し前の自分 -山口 修 + 小穴琴恵 『2人展』をめぐって[展評]

 

 正直、戸惑った-山口修が「作品のもと」なるドローイングと、そこから生み出した「作品」を示した瞬間のことだ。なぜなら、それらは全く似てなかったからだ。
 この作家を美術の道へと導いたのは中学校の美術教師。彼は山口のクロッキーを称賛し、美術部に勧誘し、美術系高校への進学を勧めた。しかし教え子がそれらに応じないと知るや、今度は美術大学の受験を提案。教師の願いは高校2年生の山口が美術予備校を初めて訪れた時から現実味を帯び始めるが、結果的に彼を22歳までそこに通い続けさせることになった。
 山口曰くこの「ドローイングと絵画」は「楽譜と演奏」のような関係で、前者が存在すことで、後者で冒険が出来、予想を超えた創造ができると言う。また「良い絵にはリズムがある」とも述べ、ドローイングはリズムに乗るための「土台」なのだと言った。その関係は音楽よりもスポーツに例えたほうが分かりやすいかもしれない。つまりドローイングは、競技中のフォームとは無関係に見てもそのパフォーマンスの最大化には欠かせないウォーム・アップのようなものではないか。
 冒頭のようなイメージの飛躍について、それが実現できるのは長い受験勉強の恩恵だと作家は言った。地道な努力の積層もまた「土台」へと転化できるその才能は、山口修が長命な作家となることを予感させた。
 
  かつて「人物を描くのは好きじゃない。」と言っていた小穴琴恵の作品に人物が登場していた。それも8点中4点。
「人間ではないくらい形を崩せるようになったから」というのがその理由。たしかに一見したところ画中に人の姿を認識するのは難しい。が、作家が「鑑賞者を案内するような親切心もある」と言うように、糸口となる線を捉えれば、まさに「芋づる式」に人体の輪郭線が浮かび上がってくるようになっている。
  描き方にも変化があった。顕著に感じたのは「下地」の存在感。その背景には、下地まで作ったキャンバスを蓄積しておくようになったことがある。彼女は制作時間内で作業内容を細かく切り替えることを好むが、下地のみの制作はそこに挿入するのに適しているのだという。また、起伏を豊かにすることも重要で、それにより、得意とするドローイング的な筆致を施しただけでも、作品としての堅牢さが保てるそうだ。だが、最重視すべきは 「下地制作」と「木炭・油彩による描画」との時差がもたらす心理的効果だろう。作家は述べる-「下地に抵抗感があることで、それを作った時を思い出せる。描きにくい場合もあるが予想外の要素があったほうが制作を続けやすい。逆に、下地の抵抗がないと、自分が今やっていることしか見えなくなる。いろんな方向から絵に向き合いたい」。
 

  山口修と小穴琴恵には大きな共通点がある。それは「絵具を塗る時の自分だけを頼りにしていては、自分を超えた作品を生み出すことはできない」という思いだ。そんな彼らの最も心強い味方は、ドローイングや下地を作ってくれる「少し前の自分」。自己に対する客観視がなせるそれぞれの戦略に、ひきつづき注目したい。
(2019年1月、RISE GALLERY WEBサイト https://www.rise-gallery.com/exhibition/cn16/january2019.html)