金唐紙をめぐる確信と「我」
(2018年11月、『炎芸術』136号、「現代工芸の作り手たち 第9回 金唐紙 池田和広」阿部出版)
飽きやすさという名の騎士 -小穴琴恵「本日の点と線」をめぐって
(2018年10月、RISE GALLERY WEBサイト https://www.rise-gallery.com/exhibition/cn16/pg574.html)
上海帰りのローラ ―松井ローラ「鼓動のリズム」をめぐって
(2018年8月、藍画廊「松井ローラ展 鼓動のリズム」DM)
絵画のうちそと
(2018年7月、RISE GALLERY WEBサイトhttps://www.rise-gallery.com/exhibition/otherexhibition/pg557.html)
3次元の画家 ―小久江峻 個展「絵画の種子」をめぐって
(2018年5月、RISE GALLERY WEBサイトhttps://www.rise-gallery.com/exhibition/2017-2018/may2018.html)
岐阜県美術館 ディアスポラ・ナウ!~故郷をめぐる現代美術[展評]
(2018年4月、芸術批評誌『REAR』41号 REAR制作室)
『VOCA2018』中山恵美子 カタログ掲載文章/ 会場用パネル
(2018年3月、VOCA展実行委員会)
雪と野心/Snow and Ambition ―シーズン・ラオの作品をめぐって
(2018年2月、リーフレット、Gallery MORITA WEBサイト http://www.g-morita.com/exhibition/2018/ex000508.html、およびアーティストWEBサイト http://www.season-lao.com/art-photo/?p=2105 )
世界をちぎる-小木久美子の制作手法をめぐって
(2018年2月、STOREFRONT「雨の野の迺 小木久美子 個展」フライヤー)
無防備とスパツィアリスモ ―「干場月花×小久江峻 2人展」をめぐって[展評]
(2018年1月、RISE GALLERY WEBサイトhttps://www.rise-gallery.com/exhibition/2017-2018/january2018.html)
金唐紙をめぐる確信と「我」
(2018年11月、『炎芸術』136号、「現代工芸の作り手たち 第9回 金唐紙 池田和広」阿部出版)
飽きやすさという名の騎士
-小穴琴恵「本日の点と線」をめぐって
「気楽に描いている気がしたから」ボナールを好きになった、と小穴琴恵は言った。たしかに、彼女の色調や筆致からこの画家への関心を察することは難しくない。だがそれで安心してはいけない。なぜならボナールは妻の裸身を執拗なまでに描き続けたが、一方、小穴は「人物を描くのは好きじゃない。苦手。」と断言しているからだ。彼女はその理由をこう語る-「感情あるものを描くと、それに雰囲気を持っていかれてしまう。でも、絵を描いているのは私なのだから“せめて描いている間は絵は私のものであってほしい”」と。
この「対象に引きずられる」問題に関してはボナールも興味深い考えを示している。それはアンジェ―ル・ラモットとの対談(1943年)でのこんな発言だ-「私は絵の制作動機であるイデー(理念)を貫こうとするが、結局はモチーフに没入し、そしてイデーを失い、何を作ればいいか分からなくなる。イデーが消滅すれば残るのは眼前のモチーフだけだ。そうなれば“絵はもはやその画家の絵ではない”」。
ところで、小穴への取材では度々「飽き」という言葉を耳にした。例えば、大作と同時に小品を描くのは、一作品に集中すると飽きるから。また、一時期はゴールを明確にせず制作していたが、それにも飽きたと-これに関して彼女は、途中でいちど方向性を見失うと、結局は既知の地点にしか辿り着けないと知ってしまった、と説明する。
そんな彼女が飽きずに続けるのは「実在の風景」を出発点とすること。抽象的なフォルムも、基本的には彼女が見た光景に存在するものだ。そこで私は「同じ風景を繰り返し描くことはあるか」と尋ねた。すると作家はこう答えた-「無いですね。一度描いたら飽きちゃうので」。
ボナールは例の対談で自身を「非力。なので、モチーフに直面すると自分を制御するのが難しい」と認めている。小穴が気楽さとして捉えたものは、一種の諦観だったのかもしれない。と同時に、彼はイデーを守り抜いた画家を数名を挙げ、各々の方策も羅列している。だが、必ずしもそれらが全て戦略的に構築されたと考えるべきではないだろう。実際には、殆ど本能的にそれが成された場合も多いのではないか。
とすれば、小穴の心に頻繁に干渉する「飽き」は、“せめて描いている間は絵は私のものであってほしい”と願う彼女が無意識的に創出したものと仮定できないか。すなわち「飽きやすさ」の正体は、彼女がモチーフの捕囚とならぬよう移動を促す騎士のような存在なのではないかと。
(2018年10月、RISE GALLERY WEBサイト https://www.rise-gallery.com/exhibition/cn16/pg574.html)
上海帰りのローラ
―松井ローラ「鼓動のリズム」をめぐって
稲村ケ崎の汀に生いたとある樹が作家の心を捉えたのは、彼が絵画を学び始めて間もない今から10年程前のこと。それから数年後、上海のナイトクラブ「lola」で人々がクネクネと躍る様子がその樹のように見えた瞬間に「ひらめき」を得たという彼は、やがてそのクラブの名前をアーティスト・ネームとして自称しながら独自の様式を力強く構築しはじめる。そしてそれは2017年の初個展に結実。作家のなかで撚り合わされた樹と人々のイメージは、そこでは精子に姿を変えて画面の上に放出されていた。
それに続く本展のタイトル「鼓動のリズム」が示すように、これまで作家は身体機能ひいては生命そのものに対し、一貫して強い関心を寄せ続けてきた。新作《Roman Holiday - Break
Shot》は映画「ローマの休日」の名場面に着想を得た絵画。その男女の表情は映画のコミカルなムードとはうらはらに死人の如く硬直しているが、その足もとからしたたる何かは彼らが間違いなく生命活動を維持していることを教えてくれる。
作家のステートメントによればその液体の正体は寝覚めの床を濡らす涙だという。とはいえ、上海のナイトクラブをルーツとする作家の軌跡を振り返れば、その説は少しばかり疑わしい。
(2018年8月、藍画廊「松井ローラ展 鼓動のリズム」DM)
絵画のうちそと(6/6)
(RISE GALLERY「服部桜子+藤川さき+前川ひな+大橋麻里子+竹馬紀美子+金田涼子 グループ展」展評より)
大小様々な3~4頭身の女の子が登場する金田涼子の絵画。量産品のような人物表現には人工的なものが感じられる一方、にじみを活かした着彩はまるで職人技のように隅々まで繊細だ。注目すべきは、風景や気象を表現した画面の中に無数の女の子たちが精霊のようにちりばめられている点。それは古来より日本が八百万の神々の国であったことを連想させる。だが、イザナギとイザナミによる国産みから始まる記紀神話の神々とは異なり、彼女の作品にはこれだけの人数の登場人物がいても、男性はひとりもいない。そこには男女の性愛の結果による受精をともなわない、たとえばクローンのようなプロセスによる増殖を連想させる。もしかしたらそれは、近未来より先の新たな神話を予兆するものなのかもしれない。
(2018年7月、RISE GALLERY WEBサイトhttps://www.rise-gallery.com/exhibition/otherexhibition/pg557.html)
絵画のうちそと(5/6)
(RISE GALLERY「服部桜子+藤川さき+前川ひな+大橋麻里子+竹馬紀美子+金田涼子 グループ展」展評より)
この4年の間に制作された3点の油彩を出品した竹馬紀美子。いずれの作品も白い空間のなかに若い女性をひとり配するものとなっているが、と同時にそれらは2,3年前に生じた作風の転換を明らかにしている。具体的に言えば、それは実際の人体の比率に基づいたクラシックな人物表現から、複製媒体を通じて流通するイラストレーションあるいはアニメーションのような作風への変容だ。《夢うつつ》に見られるような近作における「ハイライトを伴う頬や唇」は非現実的なレヴェルの艶を相貌に与えているが、それが人の目にとって非常に魅力的であることもまた事実である。多くの日本人がサブカルチャーと認識するこれらのジャンルに近い表現をタブローとして発表する作家の姿は、絵画とは何なのか、ということをあらためて考えさせてくれる。
(2018年7月、RISE GALLERY WEBサイトhttps://www.rise-gallery.com/exhibition/otherexhibition/pg557.html)
絵画のうちそと(4/6)
(RISE GALLERY「服部桜子+藤川さき+前川ひな+大橋麻里子+竹馬紀美子+金田涼子 グループ展」展評より)
「見ることに対する執着」を大事にしている、と語る大橋麻里子。絵の中に「何か分からないもの」が存在するのはそのような理由による。また、絵の中に登場する要素がリレーのバトンのように次なる仕事に継承されるのも彼女独自の制作手法のひとつだ。大橋の作品を初めて見たのは「絵画のゆくえ2016 FACE受賞作家展」(損保ジャパン日本興亜美術館、2016年)でのことだが、当時のオールオーヴァー気味で浮遊感のある表現は、やがて重力と奥行きを示し始め、近年では空のように遠景そのものが画面を支配するような作品も登場している。作家はアトリエを自然豊かな場所に移転したことで、最近では実際に目にした景色も盛り込むようになったという。今後は、そんな「現実」と「何か分からないもの」がどのように結び付けられていくのかにも期待したい。
(2018年7月、RISE GALLERY WEBサイトhttps://www.rise-gallery.com/exhibition/otherexhibition/pg557.html)
絵画のうちそと(3/6)
(RISE GALLERY「服部桜子+藤川さき+前川ひな+大橋麻里子+竹馬紀美子+金田涼子 グループ展」展評より)
前川ひなが関心を寄せる「記憶術」は、いかにして人間が記憶を蓄積し、それを自在に引き出すかという技術だ。なかでも彼女が強い興味を持ち、その絵画制作の基盤とさせる「場所法」は、特定の地点と情報を関連付けることで膨大な情報の管理を実現させる手法である。つまり、彼女にとって作品制作とは「空間と記憶の交合」を可視化する行為に他ならない。ところで、その画面においては遠近感が不明瞭あったり、モチーフが画面ぎりぎりまで配置されたりと、過剰なまでの素人感が充満している。だが、彼女の本来の画力からすればその素人感は明らかに「擬態」であり、おそらく人口の大半を占める「絵を巧く描けないと思っている人」の中にはそんなふるまいに苛立ちを覚える人も少なくないだろう。だが、そこにはそんな苛立ちにまさる蠱惑が存在していることもまた確かでありそうだ。
(2018年7月、RISE GALLERY WEBサイトhttps://www.rise-gallery.com/exhibition/otherexhibition/pg557.html)
絵画のうちそと(2/6)
(RISE GALLERY「服部桜子+藤川さき+前川ひな+大橋麻里子+竹馬紀美子+金田涼子 グループ展」展評より)
藤川さきの絵画には必ず若い女性が登場する。だが、彼女は女性を描きたいわけではなく、それが必要だから描くのに過ぎないのだと言う。例えば、首から上の部分にクローズアップした状態で描くのは、人間の顔が「違和感」を表現にするのに適しているから。確かに、顔は誰もが自分のそれを含め必ず毎日目にするものだから、少しの破綻であっても、容易く鑑賞者に違和感を覚えさせることが可能だ。藤川が描く作品はこのような「違和感」あるいは「謎めき」を常にまとっている。だが画中の女性達の口元は常に「きっ」と結ばれ、その秘密を曝すまいとするような意志が窺われる。そんな彼女達はパンドラの箱の如く「開けてはならぬ器」の番人のようでもあり、だからこそ人はそこに秘匿されているもの(実際には存在しないかもしれないが)が気になってしまうのだろう。
(2018年7月、RISE GALLERY WEBサイトhttps://www.rise-gallery.com/exhibition/otherexhibition/pg557.html)
絵画のうちそと(1/6)
(RISE GALLERY「服部桜子+藤川さき+前川ひな+大橋麻里子+竹馬紀美子+金田涼子 グループ展」展評より)
食べ物やそのパッケージを巧みに組み合わせることで、遊び心あふれる日本画を制作する服部桜子。その複雑さはアルチンボルドや歌川国芳の寄せ絵を遥かにしのぐ。その複雑さゆえ構想から完成までの期間は決して短いとはいえないが、それでも数か月間で作品を完成させられるのは、そのモチーフに対する愛好、もっといえば執着心あってのことなのだろう。Windowsのデスクトップを表現した《Windows7》や《Windows95起動ロゴ》では小さなアイコンのひとつひとつまでもが鑑賞者に驚きを与え、その徹底ぶりからは自らの仕事に対する実直さのみならず、鑑賞者に対する誠意のようなものすら窺える。一方、パソコンのディスプレイをのフレームを表現するために市販の「いかにも」な額を用いる点にはネオダダ的な気配が漂い、その作品を絵画というジャンルの枠の外へと拡張させている。
(2018年7月、RISE
GALLERY WEBサイトhttps://www.rise-gallery.com/exhibition/otherexhibition/pg557.html)
3次元の画家 ―小久江峻 個展「絵画の種子」をめぐって
[展評]
一般的に絵画は平面=2次元の、彫刻は立体=3次元の表現であるとされ、理論上それらの大きさは面積と体積に変換することが可能だ。ここで筆者が強調したいのが、それらの数値が確定されるタイミングの違い。例えば絵画はキャンバスなど支持体が用意された時点でそれが決まるが、彫刻はモデリングやカーヴィングの結果それが定まることが多く、つまりは「絵画の面積」と「彫刻の体積」の確定はそれぞれ制作過程の前寄りと後ろ寄りに分布しているということになる。
そういう意味では、小久江峻の絵画の性質はむしろ3次元作品のそれに近いと言える。なぜなら彼が油絵具をもって生み出していく「絵画の領域」は、あらかじめ用意された支持体のサイズや形状よりもはるかにに重要で、場合によってはそのの最終形に応じて《色の受け方》のようにキャンバス地がトリミングされ、そこで初めて面積が決定されることもあるからだ。
RISE GALLERYの「Creative
Continuse2017-2018」シリーズで計3回の個展に取り組んだ小久江がそれぞれに冠したタイトルは「黴音(ばいおん)」「暖炉、薪」そして今回の「絵画の種子」。かつて筆者はこのうち「黴音」について「どこからかふわりとやってきが棲み処を得ることで姿を現す黴」の生態と、彼の作品の成り立ちの共通点を指摘したが、このたび採用された「種子」もやはり人知れず空間を移動しながら生息域を展開させていくものだった。そこから察したのは、肉眼でその動きを認識することが難しいものが3次元的にテリトリーを変容させるさまに彼が強い関心を抱いているということ。そしてまた、過去作品や「暖炉、薪」のステートメントなどに窺える「音」や「匂い」といった不可視なるものへの興味も元をたどれば同じくここに行き着くのだろう。
今回の会場には凧の姿を持つ作品《空飛ぶ絵》があった。これは絵具を乾かすためにベランダに並べたキャンバスが風に煽られる様子を目にし思いついたものだという。筆者は作家へのインタビューの際、これを実際に空へと揚げた時の動画を見たが、そこに記録されていたのはまさしく絵画をもって3次元的なテリトリーを形成しようとする行為であった。さらに作家はその実験後、凧の骨組みにインスパイアされた特殊な木枠を持つタブローも制作。3次元に強く心を寄せる画家の試みは、これからもまだまだ続きそうだ。
(2018年5月、RISE
GALLERY WEBサイトhttps://www.rise-gallery.com/exhibition/2017-2018/may2018.html)
岐阜県美術館 ディアスポラ・ナウ!~故郷をめぐる現代美術 [展評]
(2018年4月、芸術批評誌『REAR』41号 REAR制作室)
『VOCA2018』カタログ掲載文章
(推薦作家 中山恵美子氏について)
「21世紀の女鉄斎」-私は中山(金澤)恵美子をこう呼ぶ。その作品は修練により磨かれた画技と、時に突飛なほど独創性に富んだ発想から綾なされている。
果てしない砂漠や海原、ざわめく草原そして都市などから成る《足跡》はとある大陸を表現したもので、《資料a~i》はそこを千里万里と歩んだ旅人の手記だという。言語の異なる国に出自をもつ男女は互いを見初めあい、その指先を結ぶ赤い花は情愛の気配を放つ。
中山の作品の魅力は、優れた文人画とも通じるようなユルさと峻厳さの共存である。一般論として「表現が自然体である」ことと所謂「焼きが甘い」ということは全くの別物なのだが、それらをとり違えているつくり手は少なくない。だが彼女の場合はこれらを明確に線引きしたうえで前者に徹しており、それが写実ではなく写意的なリアリズムにつながっている。多くの人に愛されながらもフェノロサや岡倉天心の低評価により近代美術史の表舞台から消えていった文人画だが、彼女はその良い部分を継承するだけでなく、幾つもの異文化をカバーするような茫漠さ、そして新たな出会いのときめきを表現することまでも成し得ている。
《足跡》に描かれた蝋燭や灯台は、まるで道なき道を進む者の護符のようだ。中山の仕事を眺めていると、私は骨太の劇作家のような気分になりこう言いたくなる―旅に出よう。恋をしよう。つくり手みずからの慰めにしかならない私室的絵画はもう要らないと。
(2018年3月、VOCA展実行委員会)
雪と野心/Snow and Ambition
―シーズン・ラオの作品をめぐって
マカオの街のシンボルであり、有名な観光名所でもある聖ポール天主堂。だが、17世紀前半に整備されたその建物は今では前壁を留めるだけの姿となっている。一枚の巨大なレリーフのようなそれは、まるでこの地の盛衰をめぐる叙事詩のための舞台装置のようだ。
日本が初めて接触した西洋の国が大航海時代の覇者のひとつポルトガルであることは、日本で義務教育を受けた者なら誰もが知るところだ。16世紀前半に始まる両国の交流は100年にも満たなかったが、その痕跡は食や言語など様々な分野において現代に伝わっている。しかしながら、それらの殆どがポルトガルの極東拠点であったマカオ経由で日本にやってきたことは意外と知られていない。そしてここは日本でキリスト教が弾圧の対象となった時期には信者の流出先にもなり、彼らのなかには前述の聖ポール天主堂の建立に関わった者もいたという。その後マカオはポルトガルが新興国オランダとの覇権争いに敗北したこともあってその発展を失速させてゆくのだが、ゆえに、この都市は数百年前の西欧文明を温存させたまま20世紀を迎えることになる。
シーズン・ラオはそのマカオに生まれ育った。1987年生まれの彼が中国への主権移譲を経験するのは12歳の時のこと。アーティストとしての活動を開始したのはマカオ理工大学マルチメディア科の在学中で、中国やポルトガルでのリサーチを通じて故郷のアイデンティティを探求し、それを写真や映像で表現した。なかでも2008年に発表した『百年䡃荳圍』は彼の初期キャリアにおいてとても重要な意味を持つ。制作契機は当時この地で急速に進められていた再開発。それにより生家のある伝統的建物群が取り壊しの対象となったことを知った彼はそこで暮らす人々の生活をテーマとした作品の制作に着手し、やがてこの行動は街並みの保存という成果を地域にもたらしたのだ。現在の拠点である北海道を初めて訪問したのはその翌年の2009年で、そこで雪景色と炭坑の廃墟に魅了された彼はこの地への移住を決意。そこでは文化的架け橋としても重要な役割を果たすようになり、2016年のさっぽろ雪まつりに聖ポール天主堂が造られた際には、マカオの政府観光局とともにこのイベントに協力し、故郷の世界遺産登録10周年を記念した展覧会を開いている。
人間の活動が制約される「冬」によって一年がリセットさる北国での暮らし、そして2011年に東日本大震災を経験したことは、彼の作品制作におけるコンセプトをより複層的で堅牢なものへと変化させた。それはすなわち『百年䡃荳圍』に見られたような人間や地域社会への強い関心に加え、自然観が作品に反映されるようになったということ。植物本来の繊維が視覚や触覚で認識できる手漉きの和紙の採用もこれに連動して起きた変化だ。このような素材に対する探求は、「ヨーロッパを起源とする機械を通じた造形」と「植物から作られた日本の伝統的な素材」の掛け合わせを成功させ、これにより彼は西洋と東洋、そして人工と自然の共同体とでもいうべき作品を実現することになった。
一方、その画面の中に目を向ければ、そこには東アジアの伝統的絵画表現との共通項を見出すことが可能だ。試しにここで、中国絵画の百科事典として知られる清時代の『芥子園画伝』で紹介されている描画法を挙げてみよう。その冒頭の「画学浅説」は古く宋時代に郭熙が著した『林泉高致』からの引用とされ、そこでは線の引き方や点の打ち方など、極めて基本的なスキルが12種紹介されている。ここで注目すべきは、そこでは墨ではなく支持体の色を主体とする技法が2種類挙げられている点だ。具体的には、ひとつは絵絹の地色を活かしながら淡い墨で霞がかった光景を生み出すような方法で、もうひとつは墨の塗り残しによって滝のようなモチーフに見立てるという方法。シーズン・ラオの写真の多くは雪景色であり、その雪の部分はまさしく支持体の露出により表現されている。さらにいえば『芥子園画伝』で支持体の色を活かした表現の例として挙げられている霞と滝は、状態の違いこそあれ共に水から成るもので、雪もまたそれと通じる。
ところで、シーズン・ラオの被写体として雪と同じくらい重要なものに炭坑の廃墟がある。世界の近代化を支えたエネルギーの供給源が時代から置き去りにされる様子に作家が興味を持ったのは、彼が美しい廃墟をシンボルとする都市に生まれ、そこで主権移譲を契機とした再開発による生家の取り壊しの危機を経験するなど文化の興亡を身近に見てきたことと大きく関係しているのだろう。さらにいえば、次世代のエネルギーを担うかのように見えた原子力の事故を移住後まもない時期に経験したこともまた、彼に強い影響を与えたに違いない。
最後にもうひとつ特筆すべきことがある。それは、シーズン・ラオがその活動において常にプラクティカルな態度を貫いているという事実だ。彼は自分の制作について「その70%は哲学と技法、残り30%は目的」と述べる。その哲学とは人間と自然の共存を模索することであり、目的とは人々に「継続性」について考えてもらうこと。彼の作品はマッチョで汗臭いイメージがある炭坑を被写体としながら、とても静謐で抒情的な雰囲気に仕上げられている。ここであらためて作家のステートメントを意識しながら作品を見てみれば、そこには社会を動かす力に長けた裕福でインテリジェンスな人々に関心を持ってもらうことを期待するような、ある種の戦略が浮かび上がってくる。と同時に、筆者はその野心をとても好ましく感じる。そして彼は「マカオのコンテンポラリー・アートをグローバル・スタンダードのレベルにしたい」とも言う。目的に対する力強い意志と、視野の広さ―もしかしたら彼の身体には、新しい時代を切り開くために海を越えてやってきた大航海時代の人の血がどこかに流れているのかもしれない。※写真は2017年11月、「マカオ・コンテンポラリー|新世紀のアーティストたち」(会場:アーツ千代田3331、企画:天野雅景、シーズン・ラオ
)にて撮影
(2018年2月、リーフレット、Gallery MORITA WEBサイト http://www.g-morita.com/exhibition/2018/ex000508.html、およびアーティストWEBサイト http://www.season-lao.com/art-photo/?p=2105 )
世界をちぎる
-小木久美子の制作手法をめぐって
様々な国の古新聞を素材とすることについて小木久美子はこう語る―「新聞は社会そのもの、たとえ意見が偏っているとしてもその国の縮図」。
物心ついた頃から描くことが好きで、おねだりの言葉といえば「紙と鉛筆」だったと記憶する作家。両親の媒酌人は「レモンの画家」として知られ太宰治の義弟であった小館善四郎で、その画室を訪ねることもしばしばだった。そんなふうに油絵を身近に感じ「初めて買った画集はセザンヌ」という彼女はやがて「絵かきを目指して」美大に進学。だが、そこで出会った現代美術は、小木に長い問い直しの時代を経験させることになる。彼女曰く、現代美術の条件とは、例えばそれが絵画ならば「“描く”ということを問い直したうえで始まっているかどうか」。そんな作家がずっと考え続けてきたのは、この世界を取り巻く感情とどう向き合うかということだった。
そんな状態をブレイク・スルーさせたのは、紙フェチを自称する彼女のもとに友人から届けられたイタリアの新聞。作家はこれをちぎって素材とすることで、ある種の確信とともに制作・発表活動を展開できるようになる。このうち「株式シリーズ」は自身にとって新聞のなかで最も縁遠く、しかしヴィジュアル的には面白いと感じているページに着目したもの。この連作は金融をめぐる文化や貨幣経済への関心の高まりを作家にもたらし、2016年には様々な国の紙幣が素材として採用されるようになる。小木によれば、ちぎるという行為は解体や破壊を意味しており、その結果生み出されたものの再構成を通じて新たな融和のありかたを探りたいのだという。だが、その対象が紙幣である場合はプレッシャーや苦しさを伴い、その国の労働者の顔が浮かぶこともあるそうだ。
ところで、ちぎるという動詞は漢字にすれば「千切る」となり、そこには微細さが濃厚に含意される。とはいえ、我々がその響きのみを耳にした時に想像するのは、むしろそれが鋏などの「刃物」ではなく「手によって」なされている状況ではないだろうか。プロメテウスは鍛冶の神ヘーパイストスの工房から火を盗みそれを人類に与えた。それは捨て身の善意によるものだったが、こんにちの地球を見れば、それに反対していた主神ゼウスの方に先見の明があったと言わざるを得ない。この世界で解(ほど)かなければならないものがあるならば、それは刃(やいば)や火ではなく人の手によって、そしてその感触を知覚しながら実行されるべきではないか―小木の仕事はそんなことを訴えているようにみえる。
(2018年2月、STOREFRONT「雨の野の迺 小木久美子
個展」フライヤー)
無防備とスパツィアリスモ
― 「干場月花×小久江峻 2人展」をめぐって(2/2)
[展評]
キャンバス地、綿そして油絵具を主な素材とする小久江峻は本展でも安定の風来さを発揮。支持体のフォルムや色の選択等において法則性を見出すことは概ね不可能だ。作家自身の真意を測るのが困難なまでのオートマティックな表現にはシャーマニズム的気分さえ漂う。
そんななか今回とりわけ目を引いたのは会場の冒頭に展示されていた《塵(蒸気)》。これは搬入の時点では不定形にカットされたシート状の作品だったが、展示作業中、新たに木材をバックボーンとして採用することで現在の形態になった。その瞬発的行為の証左のごとく姿を見せる布テープの賛否はともあれ、油絵具の群れからなるイメージの豊かさは、出品作中随一の出来といってよい。そしてこの作品において注目すべきは左上の角がぺろりとお辞儀をしている箇所で、さらに見逃してはならないのはそれが照明を受け同形のシルエットを画面上に出現させているという事実だ。その仕事はスパツィアリスモの名のもと2次元と3次元のアウフヘーベンを探求したルーチョ・フォンタナの試みと鮮やかに重なり合う。
(2018年1月、RISE
GALLERY WEBサイトhttps://www.rise-gallery.com/exhibition/2017-2018/january2018.html)
無防備とスパツィアリスモ
― 「干場月花×小久江峻 2人展」をめぐって(1/2)
[展評]
若い女性が美しい顔を向けてくれたり、あるいは裸でこちらを見つめてくれたりしたら―浮世絵における美人画、そして西洋の神話画や世俗画にはそんな欲望に応じて生みだされたものが少なくない。だがその一方、世の中には画家(ひいては鑑賞者)の視線に気付いていないかのような「無防備な女性」をフェティシズムの対象とする人々もいる。例えば、ヴィルヘルム・ハンマースホイが繰り返し描いたような後ろ姿の女性達、或いはヨハネス・フェルメールの「手紙を読む女」はそんな彼らの心を間違いなく刺激するものといえるだろう。
干場月花がこのたび発表した孤独な女性達もおしなべて無防備だ。《電話をしながら。》においてスマートフォンを見ながら歩く主人公の様子は、前述のフェルメールの絵画におけるそれと、新旧の通信手段を共通項としながら相似を成す。また、これを含め干場の作品ではその主役に対してスポットライト的効果をもたらす色面が配されることが多いが、それは極めてバロック的である。と同時に、興味深いのは彼女達の服装がいささか垢抜けず、主役を美化しようとする意欲が希薄であること。それはもしかしたらモデルと同性でほぼ同世代の描き手ならではのリアリズムの顕れなのかもしれない。
(2018年1月、RISE
GALLERY WEBサイトhttps://www.rise-gallery.com/exhibition/2017-2018/january2018.html)