自分のために委ねること、から -松本藍子の制作をめぐって[展評]
(2019年11月、RISE GALLERY WEBサイト https://www.rise-gallery.com/exhibition/cn21/november2019.html)
カラメルなる予兆 -清水香帆の絵画をめぐって[展評]
(2019年10月、RISE GALLERY WEBサイト https://www.rise-gallery.com/exhibition/cn21/october2019.html)
「芸術の定義」からの束縛と解放 -フランク・ミルトゲンの表現をめぐって
(2019年9月、『Franck Miltgen Apeiron』カタログ/ ルクセンブルク大使館、遊工房アートスペース)
じれったい佇まい-北上ちひろ 個展『今日も今日の宝石のために』をめぐって[展評]
(2019年8月、RISE GALLERY WEBサイト https://www.rise-gallery.com/exhibition/still/july2019.html)
兎と青年
(2019年5月、『炎芸術』138号、「現代工芸の作り手たち 第11回 漆芸 吉野貴将」阿部出版)
帷と岸辺 -山口修 個展『夜に結ぶ形』をめぐって[展評]
(2019年4月、RISE GALLERY WEBサイト https://www.rise-gallery.com/exhibition/cn16/april2019.html)
きわどい遊び -成田和子とその彫刻をめぐって
(2019年4月、制作協力 ゆいぽうと)
『VOCA2019』東城信之介 カタログ掲載文章/ 会場用パネル
(2019年3月、VOCA展実行委員会)
少し前の自分 -山口 修 + 小穴琴恵 『2人展』をめぐって[展評]
(2019年1月、RISE GALLERY WEBサイト https://www.rise-gallery.com/exhibition/cn16/january2019.html)
自分のために委ねること、から -松本藍子の制作をめぐって[展評]
誰かに勧めるかは微妙な展覧会だった。と同時に「欲しい!」と 思う作品があった。私には極めて稀なパターンである。
私が松本藍子の作品を実見したのは本展が初めて。その作品群を目にした瞬間、とても戸惑った。というのは、そこには作家の意志や判断が全く察せられなかったからだ。そこでのインタビューで作家はこう言った-「描きたいものより、画面で起こる現象を優先している」と。一方フライヤーの言葉には「作品を見た人にいつも何かを「想像」して欲しい」「私の絵を見た人は何を思い、絵の中に何を見るのだろう」とあった。そして、結局のところ私には作家がどんな表現を生み出したいのか分からず、辛うじて推測できたのは、彼女が、制作や鑑賞において、自分以外に何かを委ねることを、無意識的かつ非常に好むことくらいだった。
冒頭に戻ると、私が訪問の推奨を躊躇したのは、一般論として作家に必要とされる「個々の作品の出来・不出来や特性を認識するちから」が彼女にあるかが疑わしかったからだ。と同時に、私が「出来が良い」と思う作品は実に素晴らしく、それが一層こちらを複雑な気分にさせた。
ところで、発表経験を問うた時、作家は「自分のため」に描いていて、ゆえに発表への欲も無かったと答えた。そこにはセラピー的な雰囲気が窺えた。おそらく上記の「ちから」とそれを支える自己客観視の不在もそれと強く関係しているのだろう。だが、Creativity
Continuesの発表頻度は、自分のために、という動機だけでは追い付いていくのが困難な気がする。そう考えながら本展を見てみると、たしかに2度目の展示にしてすでに「追いつけていない感」が無い訳ではない。おそらくこの状況は「自分のため」と言いつつも自分以外の存在に多くを委ねる彼女の姿勢と表現をいずれ変えていくだろう。そして私はその変化をとても楽しみにしている。とても魅かれた作品が頭から離れないゆえに。
(2019年11月、RISE GALLERY WEBサイト https://www.rise-gallery.com/exhibition/cn21/november2019.html)
カラメルなる予兆‐清水香帆の絵画をめぐって[展評]
2019年8月、Creativity Continuesの8期目が始まった。毎年夏にスタートするこのシリーズは、ギャラリーが選んだ2名の作家による各3回の個展および彼らが参加する二人展・グループ展の計8本の企画で構成される。私がその展評を書き始めてから今年で5年目だが、以前から継続的に作品を見てきた作家が選出されるのは清水香帆が初めて。この企画特有のハードな発表ペースが作家にどのような変化をもたらすのか、個人的にもとても楽しみにしている。
彼女の表現は10年程前から比較的一貫しており、それは明るく鮮やかな色彩と大胆な構図などにより特徴づけられる。とりわけ私が注目してきた要素は形状や線の「反復」。具体的には類似する図形が双子または姉妹的に存在することや、ループ状を含む曲線あるいは直線のリズミカルな繰り返しなどがそれにあたる。また、画面全体からは「物質としての絵の具」の自立性が感じられ、その作品を絵画として堅牢なものとすることに寄与している。
そのことを踏まえ私が本展と向き合ったとき、そこには冒険心が随所に反映されている様子がはっきり見て取れた。この展示が、彼女の画歴においてほぼ特異な位置を占めるようになることは間違いないだろう。例えば悪意なく「問題作」と評したくなった《翠雨》は矩形のなかにパープル系の有機的形状と、それを取り囲む緑色の部分がまるで鬩ぎ合うように詰め込まれ、これまでの浮遊感や風通しの良さを感じさせる作品とは一線を画するものとなっている。そのほか《露》《float》のように画面のふちに額縁的に色面を配した作品の発表にも開拓心が読み取れた。
そして、このように注目すべき作品が多い中、最も印象に残ったのはカラメル色を基調とした色彩が新鮮な《夕凪》。海景用のカンヴァスを縦長に使ったその作品からは、画面のプロポーションへの挑みのようなものが窺え、画面の内部での試行を超えた大きな変化が予兆された。
(2019年10月、RISE GALLERY WEBサイト https://www.rise-gallery.com/exhibition/cn21/october2019.html)
「芸術の定義」からの束縛と解放
-フランク・ミルトゲンの表現をめぐって
(2019年9月、『Franck Miltgen Apeiron』カタログ/会場 ルクセンブルク大使館、遊工房アートスペース)
※カタログはこちらより全頁をご覧いただけます
じれったい佇まい-北上ちひろ 個展『今日も今日の宝石のために』をめぐって[展評]
インタビューにおいて、北上ちひろはこう言った-「やりたいことを自分の中に留めるか、作品にするかで迷うけれど、表に出さないと評価もしてもらえないし」と。その言葉どおり、今回の作品群の一部からは、ナイーブな、あるいは中途半端さが感じられた。そんな状況が呈される背景には、ふたつの理由があるように思った。ひとつは「あまり良くない出来事も大切にしてあげたい」「自信がない今の自分も肯定したい」と本人が語るような、ネガティブな事象に対する擁護や容認。そしてもうひとつは、作ったものはその出来に関わらず人目に晒して批評を得たいというある種の貪欲な姿勢。いずれも、少しでも自分を良く見せたいなら、多くの作家は避ける行為だろう。北上ちひろという作家は、おそらく、制作でも発表でも取捨選択がものすごく苦手なひとで(それは《ガーリー。》において顕著)、ゆえに、好きなものを作品に反映させるだけでなく、時としてそうでないものでさえその対象としてしまうようだ。それは、彼女の強みへと転化する可能性を感じさせるものではあるのだが。
作家は近ごろ、海の近くで暮らし始めたという。それを聞いてから再度《あのシャンデリアⅡ》に向き合ったら、それは波間を進む宝船のようにも見えた。2年前の個展で私は彼女の状況をキャラバンになぞらえのだが、今回もまた彼女の仕事には旅立ちへの願望のようなものが仄見えた。とはいえ実際にはその歩みが前進することは殆どない。なんともじれったいのだが、しかし少し冷静に考えれば、その佇まいこそが北上ちひろという作家の様式を決定づける重要な要素であるように私は思い始めている。
(2019年8月、RISE GALLERY WEBサイト https://www.rise-gallery.com/exhibition/still/july2019.html)
兎と青年
(2019年11月、『炎芸術』138号、「現代工芸の作り手たち 第11回 漆芸 吉野貴将」阿部出版)
帷と岸辺 -山口修 個展『夜に結ぶ形』をめぐって[展評]
深夜徘徊-裸足の場合も含め-を常習し、ゆえに職務質問をされることもあるという山口修。沈鬱なトーンとまるでその反動のような白日夢的色彩から成るその絵画には、一部の作品名にも現れているように、「あてどなさ」への関心が漂っている。
彼はその制作において、いちど明るい色で全体を描き、それを徐々に暗めの色で覆っていくという方法をとっている。作家によれば、キャンバスの表面には一時的に人物の相貌が登場することもあるが、それもまたこのプロセスのなかで殆ど消えていくという。私はその状況を想像した時、画面に夜の帷が忍び寄って行くような感覚を覚えた。と同時に、人間の表情が不明瞭となっていく様子は「黄昏」の語源である「誰そ彼」という言葉と鮮やかに重なり合った。
《地球が丸くなければよかったのに》は作家が「世界の果てシリーズ」と称するものの一つだ。そこには、この世に縁(へり)というものがあればそれを見てみたい、という願望が反映されており、その向こうにはいつも暗い宇宙が広がっている。
裸足で、という山口の言葉から私が連想したのは巡礼者として四国を歩いてきた人々、より具体的には、厳しい道のりで知られる足摺岬での姿だった。ここもまた歴史的には現世のきわとされてきた場所である。一方、先述の「誰そ彼」時はまたの名を逢魔時ともいい、それは異界へのアクセシビリティを意味している。作家は、夜更けに彷徨い、絵画に帷をかけていくことで、岸辺の先の世界との接触を試みているのかもしれない。
(2019年4月、RISE GALLERY WEBサイトhttps://www.rise-gallery.com/exhibition/cn16/april2019.html)
きわどい遊び -成田和子とその彫刻をめぐって
(『成田和子作品集』所収)
(2019年4月、制作協力 ゆいぽおと)
『VOCA2019』カタログ掲載文章
(推薦作家 東城信之介氏について)
東城信之介がアテネで察したのは、同じく世紀転換期に「国際的な大会」を開催した故郷・長野と同質の荒廃だった。
年月を経て素材に残された痕跡に自身の存在を上書きする「タギング」シリーズを手掛け約10年。その目的は対象とするものの確認や解釈、それによる安心の獲得であり、制作においては長らく「物質と作家」「過去と現在」という二者関係が重視されてきた。だがギリシャからの帰国後、そこには「世界」と「未来」が加わる。
模写を自称することは、伝聞と嘯(うそぶ)き「此比(このころ)都ニハヤル物」と世相風刺を連ねた「二条河原落書」の批評的態度と重なる。一方、周囲の事物を映し、奥行きを錯視させる性質は鏡に通じるが、その「鏡」も古来より史書=社会記録の異名である。
壁の描出はまさに浮世の歴史化といえる。と同時に、その物理的性質ゆえに不断の反映(リフレクション)を運命づけられた本作は、過去の遺物とされることからも永遠に免れうるだろう-東京での「大会」後もずっと。
(2019年3月、VOCA展実行委員会)
少し前の自分 -山口 修 + 小穴琴恵 『2人展』をめぐって[展評]
正直、戸惑った-山口修が「作品のもと」なるドローイングと、そこから生み出した「作品」を示した瞬間のことだ。なぜなら、それらは全く似てなかったからだ。
この作家を美術の道へと導いたのは中学校の美術教師。彼は山口のクロッキーを称賛し、美術部に勧誘し、美術系高校への進学を勧めた。しかし教え子がそれらに応じないと知るや、今度は美術大学の受験を提案。教師の願いは高校2年生の山口が美術予備校を初めて訪れた時から現実味を帯び始めるが、結果的に彼を22歳までそこに通い続けさせることになった。
山口曰くこの「ドローイングと絵画」は「楽譜と演奏」のような関係で、前者が存在すことで、後者で冒険が出来、予想を超えた創造ができると言う。また「良い絵にはリズムがある」とも述べ、ドローイングはリズムに乗るための「土台」なのだと言った。その関係は音楽よりもスポーツに例えたほうが分かりやすいかもしれない。つまりドローイングは、競技中のフォームとは無関係に見てもそのパフォーマンスの最大化には欠かせないウォーム・アップのようなものではないか。
冒頭のようなイメージの飛躍について、それが実現できるのは長い受験勉強の恩恵だと作家は言った。地道な努力の積層もまた「土台」へと転化できるその才能は、山口修が長命な作家となることを予感させた。
かつて「人物を描くのは好きじゃない。」と言っていた小穴琴恵の作品に人物が登場していた。それも8点中4点。
「人間ではないくらい形を崩せるようになったから」というのがその理由。たしかに一見したところ画中に人の姿を認識するのは難しい。が、作家が「鑑賞者を案内するような親切心もある」と言うように、糸口となる線を捉えれば、まさに「芋づる式」に人体の輪郭線が浮かび上がってくるようになっている。
描き方にも変化があった。顕著に感じたのは「下地」の存在感。その背景には、下地まで作ったキャンバスを蓄積しておくようになったことがある。彼女は制作時間内で作業内容を細かく切り替えることを好むが、下地のみの制作はそこに挿入するのに適しているのだという。また、起伏を豊かにすることも重要で、それにより、得意とするドローイング的な筆致を施しただけでも、作品としての堅牢さが保てるそうだ。だが、最重視すべきは 「下地制作」と「木炭・油彩による描画」との時差がもたらす心理的効果だろう。作家は述べる-「下地に抵抗感があることで、それを作った時を思い出せる。描きにくい場合もあるが予想外の要素があったほうが制作を続けやすい。逆に、下地の抵抗がないと、自分が今やっていることしか見えなくなる。いろんな方向から絵に向き合いたい」。
山口修と小穴琴恵には大きな共通点がある。それは「絵具を塗る時の自分だけを頼りにしていては、自分を超えた作品を生み出すことはできない」という思いだ。そんな彼らの最も心強い味方は、ドローイングや下地を作ってくれる「少し前の自分」。自己に対する客観視がなせるそれぞれの戦略に、ひきつづき注目したい。
(2019年1月、RISE GALLERY WEBサイト https://www.rise-gallery.com/exhibition/cn16/january2019.html)