TEXT 2022

 アンフラマンスなやきもの

(2022年5月、『炎芸術』150号 「フォーカス・アイ 阿波夏紀」阿部出版)

 

 

アートを「買う」という、新しい楽しみ方

(2022年4月、大丸松坂屋カード NEW ME, NEW LIFE MAG. https://mag.jfr-card.co.jp/culture/20220425/art.html)

 

   

松本藍子の絵画におけるふたつの傾向 ー個展「覚めない夢の中で」を見て[展評]

(2022年4月、RISE GALLERY WEBサイト https://rise-gallery.com/exhibition/corner80/pg1186.html

 

 

不在化と可視化 ー手賀彩夏 個展「生まれて、きえる」をめぐって[展評]

(2022年1月、RISE GALLERY WEBサイト https://rise-gallery.com/exhibition/corner80/pg993.html

 




 

アートを「買う」という、新しい楽しみ方

 

(2022年4月、大丸松坂屋カード NEW ME, NEW LIFE MAG.

https://mag.jfr-card.co.jp/culture/20220425/art.html)

 

 


 

松本藍子の絵画におけるふたつの傾向 ―個展「覚めない夢の中で」を見て[展評]

 

 初めて松本藍子の絵を見たのは201911月の個展でのこと。その時は、魅力的な作品がある一方、なんとなく中途半端さを感じるものも散見されて、この作家の「出来・不出来に関する認識」は一体どうなっているのか?と困惑した記憶がある。しかしその後そう感じることは減ってゆき、今回は、会場に入った瞬間、ひとつひとつがしっかりとした強度を持っていることが分かった。そしてその作品群は、彼女の仕事を分析的に理解するきっかけを私に与えてくれた。

その糸口となったのは支持体のサイズによる表現の違いである。松本の作品では、色に関しては画面の大きさと多様さが比例する傾向にある。線については、画面が大きいほど、のびやかに引かれた躍動感のあるものが目立ち、逆に、小さくなるほどじりじりとした印象のものが存在感を増す。そして構図は、大きな作品ほど奥行きのある多層的な表現となる。これらの例として2点ずつ挙げるなら、大型の作品は《あなたの代わりに》と《まだ覚えている》、そうではないものでは《cherry》《写真の花》が妥当であろう。

両者が同じ空間にある時、多くの鑑賞者の視線は、おそらく前者のほうに引き寄せられる。しかし私は、後者にこそ彼女の独自性の宿りを見る。というのは、これらのトーンは同系色にほぼ限定され、縁に近い部分には塗り残しがあるにもかかわらず、不思議とその画面からは「濃さ」のようなものが感じられるからだ。また、《cherry》はサクランボのフォルムから「虚実」や「陰陽」が思い起こされ、《写真の花》はよりスケールの大きなもの―例えば仙境における崖のように見え、そして私はふいに禅機図を連想した。

とはいえ、このように対比させながら言及したものの、実際のところは両方の特徴を備えた作品も少なくない。そして過去に中途半端さを感じた作品というのは、それに類されるケースのうち、双方の共存がうまくいっていないものが多かったように思う。しかしその逆の場合もある。今回の出品作のうち、暖色と寒色を組み合わせた小型の作品《pool》は、まさにその好例といえるだろう。

 

(2022年4月、RISE GALLERY WEBサイト https://rise-gallery.com/exhibition/corner80/pg1186.html


 

不在化と可視化 -手賀彩夏 個展「生まれて、きえる」をめぐって[展評]

 

 フラットな色面によるリトグラフを制作する手賀彩夏。本展は大学院に進んだ2015年以降の作品で構成され、コンパクトな規模ながら、これまでの画歴を俯瞰できる内容といってよい。

そのモチーフの扱い方にはいくつかの特徴がある。対象の全体像が画中に収まらないほどのクローズアップはそのひとつ。ゆえに作品によっては正体が判りにくいものもあるが、一方で「手首から先」を表現した作品に関しては《なんて、言えない》のように、しばしば「爪」が手の全容の把握を促してくれる。また、人が登場する作品については《恋心2》《二人は恋人だった2》のように、さらに引いた視点からのものもある。これらは前述の手の作品に比べ表現される範囲は大きいが、かといって状況を認識しやすいわけではなく、むしろ具象かどうかさえ確信し難い。その要因のひとつでもある「顔貌を詳らかにしない」表現からは匿名性が窺えるが、同時に、構図からは盗撮のような窃視性も読み取れる。そしてこのような「隠す/見る(そして記録する)」という相反する要素の共存は、鑑賞者が少し緊張するくらいの複雑な性格をこの作品に与えている。

「生まれて、きえる」という本展の名称にちなみ、「時間の表現」においても確認をしておく必要がある。手賀はしばしばシート上に同じモチーフを複数登場させることで時間の経過を表すことがあるが、その場合は《生まれて、きえる3》のようなコマ割状と、《今日も楽しかったね》のような異時同図法的なタイプがある。そしてとりわけ私が特に注目するのは後者で、というのは、花瓶が左端に向かいフレームアウトしていく様子は、不在化つまり「きえること」へのプロセスそのものといえるからだ。そしてこのフレームアウト感は異時同図法的な作品に限らず、例えば《友達とサイダー》の気泡や、本展のフライヤーやWEBのメインヴィジュアルとして使用された《まんまるの気持ちがかけてしまった》(部分使用)のケーキにも見られる。作品名も含め「生まれて、きえる」という言葉を頻用してきた彼女だが、作品をみるかぎり、実際のところ関心の的というのは専ら「きえる」モノやコトであるように思う-それを可視化させるかどうかの判断や方法も含めて。

 

(2022年1月、RISE GALLERY WEBサイト https://rise-gallery.com/exhibition/corner80/pg993.html